主人への突然の癌の宣告----恐怖と戦った3か月余り、そして主人との忘れがたい最後の思い出
あれはパリに住んでいたときのことです。
2002年の4月下旬の頃のこと。
今回はそのときに起きたある信じがたい私の人生を大きく狂わした出来事についてお話したいと思います。
パリは冬が長く、4月でも、まだ底冷えがするほどです。5月になって、やっと少し暖かくなり、春がそこまで来ている、と心が躍る時期になります。
5月になると、ブローニュはローランギャロスで毎年行われるテニスの全仏オープンのため、世界各地からやってきた観光客で賑わいを見せます。この賑わいを見届けると、パリに春がきます。1年の中で一番良い時期です。
主人の癌が見つかったのは、ちょうどこの時期です。
悪性がんの末期状態でした。
結婚4年目の春の出来事です。
結婚4年目の春の出来事です。
私の家は、パリ郊外のブローニュの森に面した閑静な住宅街にありました。数少ない新築のマンションで、結婚と同時に主人が私のために購入してくれました。
主人の矯正歯科専門の診療室はベルサイユ宮殿の近くで、自宅から北西へ30kmほど行ったところのエポンという小さな町にありました。
私と結婚する前は、診療室のすぐ近くに自宅があったのですが、そこには日本人も私の知人も誰も住んでいないし、私がいろいろ不自由をすると心配してくれて、ブローニュに新居を構えてくれました。
主人が倒れた時、私は、パリのある矯正歯科医で働いていました。
凱旋門のすぐ近くにある矯正歯科医院を経営するやり手な院長で、日本人の患者さんが多くいて、私は、日本人の患者さんの担当者として、通訳、権、歯科助手として、忙しく働いている時の事、突然、私宛てに1本の電話が入りました。
「奥様ですか?ご主人が倒れました、すぐに病院に来てください!」と。
主人は、私と結婚した当初から、慢性腰痛がありました。私も慢性腰痛はあり、二人とも、歯科医師であるので、職業病だとばかり思っていて、今回倒れた理由も、「きっと診療中にぎっくり腰か何かかな?!」と安易に解釈し、全仏オープンへ向かう人たちで満員になっているバスに乗り、自宅近くにある病院へ向かいました。春の日差しが窓からさしていました。
その時、癌は肝臓まで達していて、彼の腰の痛みは肝臓の痛みだったのです。
よく後で冷静に考えてみると、私たちの結婚式の当日、式から結婚披露宴を終えた私が部屋に戻ると、腰を抱えて、沈み込んでいる主人がいました。
結婚当初、もう、すでに、癌が身体を蝕んでいたのです。
病院につくと、主人は、いつものようにやさしい笑顔で私を迎えました。
「ぼく、生まれて初めて血をはいたんだよ。」と。
それから数日後に検査の結果を二人で聞きに行きました。
まさか末期癌などとは、まったく考えもせず、たとえ、何かの病気だったとしても、治療すればすぐに治ると思いこみ、二人は楽観的な気持ちで主治医の待つ診断室へはいりました。
「残念ながら悪性がんの末期です。もうすでに身体中に癌がまわってしまって、肝臓もやられてしまっています。あと、半年の命です。その準備を始めてください。」と。
「でも、気を落とさないでください。延命治療をできるかもしれませんから、その治療をすぐに開始します。うまくいけば、1,2年は生き続けられるかもしれません。」と。
おもしろいもので、こういう状態に置かれると、この最初の先生の言葉は耳にはいりません。
この「でも、延命できるかもしれません。何年間は生き続けられるかもしれません。」という言葉しか耳に入らないのです。
「大丈夫だよ、死ぬはずないよ。ね!治療に専念しようよ。!」と私は主人に言いました。
「そうだね!可奈子と子供を残して死ねないよ!がんばるよ!」と。
こういう時、主人が亡くなることを前提に、いろいろな事をやらなければいけないことは二人ともわかっていました。
でも、私は、この日から、「死」という言葉は、一切発しませんでした。ただただ、いつもののように明るく楽しく生活しようと決めました。ただ、治療に専念するために、主人の診療室の患者さんに、迷惑のかからないよう、代診の先生をすぐに探し始めました。
それからすぐに、主人が、「可奈子、二人で旅行行かない?」と提案してきたのです。
そして二人で1週間旅行しました。マルセイユへ行きました。
マルセイユには、主人の前の結婚でできた長男がマルセイユ大学の歯学部に在籍していて、一人で下宿していました。彼に会いに行くことも、ここを選んだ理由でした。
フランスの新幹線TJVでマルセイユの駅につくと、一番初めに目につくのは、マルセイユの代表的な観光スポット、ノートルダム寺院です。
私は正直言って、あまり宗教心の強いほうではありませんでしたが、この時ばかりは、私はちがいました。
「ねえ、あそこでお祈りしましょうよ!」と。
そして、私は祈りました。
「どうぞ、どうぞ、彼をたすけてください。」と。
旅行中、二人とも、何もなかったように普通に過ごしました。
主人は、いつものようにやさしい笑顔で私を包んでくれました。
主人の長男も、何も言わずに、楽しく一緒に過ごしました。彼も、私と同じように、主人にまさかのことがおきなければ、と、大きな不安と恐怖の中にいたと思います。
旅行からパリへ戻ると、治療が始まりました。抗がん剤治療です。
治療のたびに2,3日、入院し、あとは家で療養する、というのを繰り返しました。
薬が強く、治療のたびに、どんどん痩せていきました。
親戚や友人、仕事関係の人たち、すべてにこのことを知らせました。
ここでも文化のちがいを見せつけられました。
日本だったら、治療に専念したいのですから、みなさん、そっと、見守ってくれるでしょうが、フランス人は違います。自分が会いたければ、いつなんどきでもやってきます。毎日、かわるがわるたくさんの人たちが自宅や病院にやってきました。
私の結婚のお仲人さんもやってきました。このお仲人さんは、当時、ヨーロッパ矯正歯科学会の会長さんであり、主人の親友でもありました。アンドレア ホーン先生です。
主人が亡くなって、一番最初に飛んできてくれたのも、アンドレです。
そして、私がフランスにいる間、主人の代わりに私を守ってくれた一人です。
あとでアンドレから聞きました。、「僕が死んでしまったら、可奈子を頼む。」と、主人がアンドレに頼んで死んでいったようです。
主人の姉も毎日のように心配してきてくれました。たくさんの健康食をもってきてくれました。
主人はどちらかというと、食生活は、あまり模範になるような食事ではありませんでした。
煙草も吸いました。
それから二人きりになれる時間はほとんどありませんでした。
今、考えると、主人も、二人きりですごせるのは、パリを離れるしかないと考えてのマルセイユ旅行だったと思います。彼の中では、これが最後の思い出になるとわかっていたのでしょう。
病気が発見されて治療を続けて1か月がたちました。
4年も同じところに住んでいると、近所の方々とお友だちになります。
移民に対するパリジャンたちの冷たい態度に遭遇し、つらい思いを何度もしていましたが、フランス人の主人を通して友人になったフランス人の隣人たちは、私にもとても親切にしてくれました。
特に同じマンションに住む、ミリアムとドクターバージョンスキーは、とても親しくなりました。このマンションは新築でしたので、できたと同時に入居した人たちです。
ミリアムは、ユダヤ系フランス人夫婦で我が家の下の階に住んでいました。子供も同い年でサラちゃんという金髪の巻き毛が愛らしい美しい女の子でした。ミリアムと私は、同い年でとても気が合いました。サラちゃんは、「私の旦那様はいますか~?!」と、私の子供と、すでに婚約を交わしたつもりでいたようです。二人とも当時3歳でした。
少しユダヤ系フランス人についてお話します。
私も、何となくではありますが、世界中に散らばったユダヤ人たちに成功者が多いということは知っていました。
ミリアムのご主人もその一人でした。
このご家族と数年間お付き合いして、ユダヤ系フランス人の成功する秘訣がわかりました。
まず、できるだけユダヤ人同士、結婚します。
この紹介した人たちは、大抵、権力者であったり、大きな会社を経営する社長さんだったりします。
そして、もちろん、ご両親同士も、もともと知り合いで、結婚と同時に、これらのユダヤ人のカップルが成功するよう、手助けします。
ミリアムのご主人も、とても、若いのに、どんどん出世していくのが、はたからみていてもわかりました。
大きな企業の社長さんは、良い仕事が入ると、それらの仕事が自分では回しきれないと判断すると、その仕事をユダヤ系フランス人に与えます。そして、また、その譲り受けた人が成功し、仕事に余裕ができると、また、自分の仕事をユダヤ人に分け与えます。
こうやって、結束を固くしてユダヤ人は、どんどん裕福になっていくのだなあ、と、納得しました。
私は、よくミリアムに誘われて、ホームパーティーに参加させてもらいましたが、そこにいるのは、いつも、殆どがユダヤ人でした。
ユダヤ人が迫害された時期、日本人が多くのユダヤ人を救ったことは、私も多少なりとも知識にはありました。それが理由で、親戚一同、そして、知人までもが、私を心から受け入れてくれたのかは、わかりません。しかし何しろ、毎日、行き来するほど親しい関係となりました。楽しいパリの思い出の一つです。
マンションの1回にファミリードクターとして診療所を開設した女医さんのバージョンスキー先生もとても親しくなりました。英語もできたので、子供の主治医にもなってくれていて、子供が熱を出すといつでも、すぐに見てくれました。私たちマンションの住人たちにとっては頼りになる存在でした。
この隣人たちにも主人の病気のことはすぐに伝えました。
みんな、心から心配してくれました。
6月に入ると、主人の病状が悪化してきました。
病院にいる時間が長くなりました。
私は、毎日、病院で一緒に過ごしました。
日本の私の母にもそのことを伝えました。
母もあまりのショックで体調を崩してしまいました。
この時、母は歯茎がみるみるうちに下がり、歯周病にかかってしまいました。
ストレスが原因の歯周病です。
あとで母の友人から聞きました。
「可奈子さんのお母様、何も事情は教えてくださらなかったけど、もう、普段のお母様とは思えないぐらいよ。ショック状態のお顔でこれはただ事ではないと感じました。」と、
あとで事情を知った母の友人は言っていました。
ストレスの恐ろしさをこの時に痛感しました。そして、私は、なんて言う親不孝者だと自分を責めました。
それでも、母は主人を何とかたすけようと、日本から、ありとあらゆる自然治療薬を送っていてくれました。
それを主人に渡すと、素直に全部、飲んで試してくれました。
あれだけ母の反対を押し切って勝手に結婚したのに、こんなに心配してくれて、本当にありがたいと思いました。
結婚前の4年間、母は結婚に反対し続けました。
それでも、どうしても結婚したくて、私は、勝手に結婚式の日取りを決めてしまい、母には、「7月10日に結婚式をパリであげるから来て!」と。
そして、母は、「私は行きませんよ。許しませんからね。」と。
「そう、勝手にして。でも、ただ一つ,言っておくけど、もし、結婚式に来なかったら、私たち、親子関係も終わりだからね。」と、私。
母は悩みに悩んだ末に、結婚は許してはいなかったと思うのですが、結婚式には参加してくれました。
主人が亡くなったあと、「可奈子、結婚を4年間も反対して、ごめんなさ。もし、もっと早く結婚させてあげれたら、もっと、長く一緒にいられたのに。」と悔やんでいました。
6月の半ばに、夏休みを目の前にして、子供の幼稚園でお遊戯の発表会がありました。
主人が、「ぼく、行けるよ!」と。
「うん、わかった。一緒に見に行こうね。」と。
そして、お遊戯会の当日、私と主人は最高のおしゃれをして、幼稚園へ。
主人に久しぶりに会ったご父兄の皆様、主人のあまりにも変わり果てた姿にびっくりして、言葉もかけられないようで、私たちのほうに近づかないようにしているのがわかりました。でも、私と主人は、自分たちのほうから皆様に近づき、いつも通り、笑顔で挨拶をして、子供のお遊戯を手をたたきながら応援しました。
これが三人で過ごした最後の楽しい思い出です。
6月後半になると、主人は歩けなくなってきました。
私が病院の面会時間を終え、家に帰宅すると、電話が鳴っていました。
すぐに出てみると、主人からでした。あれ、今、会ったばかりなのに、なぜ電話で?
もう声もでなくなってきていましたが、小さな声で、「メルシー!(ありがとう!)」と。
私は、すぐに答えました。
「メルシー!モア オウシー!(私のほうこそありがとう!)」と。
そして、私は一人で泣きました。
きっと会うと主人も泣いてしまうから電話でしか言えなかったんだと思います。
彼は、亡くなるまで、というより、結婚してから一度も私に泣いたところを私に見せていません。
本当に強く包容力のあるすばらしい人でした。
亡くなる5日前のことです。
主人が、突然言いました。
「ねえ、食事に行かない?!」と。
「うん、わかった!」と、私は、返事をして、車でブローニュの病院近くにある、陽射しがいっぱい入る素敵なレストランで二人で昼食をしました。
「可奈子、ごめんね、5月の君のお誕生日、祝ってなかったね。今日、お祝いしようよ。!」と。
そして、何も食べれないくせに、この日は、主人の大好きだったステーキを全部きれいに食べてしまいました。
「ほら、可奈子、見て、僕、全部食べれたよ。きっと病気が治ったんだよ!」
と。
私は、泣きそうになるのを必死でこらえながら、「うん、そうだよ!治ったよ!」と言いながら、私も自分の分を飲み込むようにして無理やり口の中にいれ、全部きれいに食べました。
亡くなる3日前、夏休みを前にパリの町は当然のこと、病院で働く人たちも次々へとバカンスへ出発し、病院はもぬけの殻状態となりました。
主人の主治医の先生も同様でした。
「明日からバカンスで数週間病院にはいません。でも、ご主人の症状は安定していますから、ぼくのいない間に何かあることはありませんので、大丈夫です。でも、何かあったら電話してください。」と電話番号を私に渡し、バカンスへ行ってしまいました。
そして、この時期、主人の子供たちや、親戚の人が、病院に次から次へとやってきました。
そこでも主人は、「みんな、心配しないで、ぼく、元気になったよ!歩けるんだから!」と言って、ベットから必死に起き上がり、歩いてみせました。
「そうだよ!治ったよ!」と、みんな、泣きながら笑うしかありませんでした。
主人はこのようにいつも明るく人々に笑顔を与える人でした。最後までみんなに笑顔でいてほしかったんだと思います。本当に強い人です。
子供も病院に連れていきました。
その時も何も言わずに、いつもの笑顔で、痩せこけて力のない腕を一生懸命持ち上げて、子供を抱きしめていました。
これが子供との最後の別れとなりました。
主人のお母様が当時、まだ健在だったのですが、主人はお母様だけには、病気が悪化してから会いたがりませんでした。病気がわかって、すぐに、一度、お母様のところへ会いに行ったのが最後になりました。この時も、主人は何も言わずにいつも通りにお母様と過ごしていました。
きっと、やせこけてしまった姿をお母様に見せて平常心でいられる自信がなかっのだと思います。亡くなる数日前に、電話でお母様と話したのが最後になりました。
お母様に自分が弱ったところを絶対に見せたくなかったようです。男というのはこういうものなのか、と感じました。
亡くなる2日前、主人の様子が一変しました。
どうやら身体中に激しい痛みが出てきたようでした。
私は、モルヒネを増やしてもらおうと、看護婦さんに先生を呼び出してもらいましたが、なんと、その時、現われた先生は、まだ、臨床経験のない研修医でした。
そして、何を血迷ったか、もう、苦しくて声もでない主人に、「お名前は?いつからこの状態ですか?何の病気ですか?」などど質問し始めた。
この時、病院には、主人の状態を把握している看護婦さんも先生も、皆、バカンスへ行ってまっていて、しかも、主人のカルテがどこにあるのかわからないというのです。
この時の事は二度忘れません。
私は、すぐに主治医の先生にも電話しましたが、留守電で、何度電話しても返事はありませんでした。
この時に、初めて日本の医療人がいかに献身的な医療をしているかを痛感しました。
私は、研修医に、「何をしているの!早くモルヒネを打ってあげて!」と叫びましたが。
研修医はおどおどするばかり。
カルテがなければ、名前から始まって、一から診断して検査して、カルテを作り直すしかないのだと、言う。
もうこれはダメだと思い、私は、我が家のホームドクターのバージョンスキー先生のところへ駆け込み事情を話すと、すぐに病院へ行き、夜通しカルテを探し、見つけ出してくれたのです。そして、モルヒネを打つ手配をしてくれました。
あの時の恩は一生忘れません。
次の日、私は、すぐに病院へ戻ろうとしましたが、震えが止まらず、車も運転でず、歩くのもやっとの状態でした。そんな私を、病院まで車で送ってくれたのが、下の階に住むミリアムでした。
「可奈子、気をしっかり持って!」と。
病院に戻ると、主人の姉がすでに来ていました。
「可奈子、朝から何も食べていないでしょ。何か食べないとあたながまいっちゃうわよ。」と言って、私をランチに連れ出しました。
そこへ連絡が入りました。
「早く、病院へ、ご主人が、」と。
戻って見ると、主人は亡くなっていました。
「え、うそでしょ?!お別れ言っていない!一人にしないで!!私はこれからどうしたらいいの?!」と心の中で叫びました。
あとで主人の姉に聞いたところ、私に亡くなっていく姿を見せるのは、あまりにも残酷なことで、私がどれほとの覚悟をして日本からフランスへお嫁にきたかを一番わかっていた主人は、自分が死ぬ時がきたことを察知し、姉に言って、私を病室から連れ出すように頼んだそうです。
2002年7月22日に主人は亡くなりました。
2002年7月22日に主人は亡くなりました。
それから2週間して主治医がバカンスから帰ってきて、説明があるから病院へ来るように連絡がありました。
私は、病院へ向かいました。しかしながら、まだ、フランス語のレベルは、会話程度しかできない私が、主治医の説明を理解できるはずもなく、私は、パリ郊外に住んでいた痛み専門の医師であった主人のいとこを呼び出して、主治医の説明を聞きに行ってくれるように頼みました。
説明を受ける部屋に主治医はうつむいて座っていました。
主治医は、主人の死因について、あれこれ説明していましたが、私の耳には一切、そんなことははいってきませんでした。もちろん、私のフランス語のレベルでは、医学専門用語を並び立てての説明がわかるはずがありません。
ただただ、怒りだけが沸き上がってきました。
そして、「あなた、私と約束しましたよね。まだまだすぐには死なないって。それに、どうして電話にでてくれなかったんですか?!あたなにとって、バカンスは人の命より大切なんですか?!私がフランス語をまともに話せないから電話にでなかったの?ただの知らない外国人のためにバカンスをやめて病院に戻るなんて、ばからしい、と思ったんでしょ!」と怒鳴りつけました。
もちろん、これだけの文章をフランス語でまくしたてるほどのフランス語能力がなかった私は、英語で主治医を怒鳴りつけていました。
もちろん、これだけの文章をフランス語でまくしたてるほどのフランス語能力がなかった私は、英語で主治医を怒鳴りつけていました。
主治医が英語が理解できたかどうか知りませんが、きっと、私が何を怒ってるぐらいは、わかっていたはずです。そして、最後までそれに対して何も返事をしませんでした。ただただ、下を向いているだけでした。
横にいた主人のいとこは、「可奈子、もういい、やめないさい。行こう!」といって私を椅子から立たせて、病院を後にしました。
私は、怒りが収まらず、「病院を訴えてやる!」と主人のいとこに言うと、
「やめなさい、そんなことをしても彼は戻ってこないよ。時間の無駄だ。」と。私をなだめてくれました。
良く考えて見ても、たとえ、病院相手に訴えたとしても、フランス語の書類も読めない、裁判でのフランス語の専門用語もわからない私が、裁判に勝てるはずがありません。
私は、主人のいとこに言われて我にかえり、ただただ、「私は、何てことになってしまったんだろうか」と。目の前が真っ暗闇になりました。
今まで、主人の名前を辛くて書きませんでしたが、最後に書きます。
主人の名前はフィリップです。
青い瞳のフランス人らしい素敵な男性でした。(右写真)
今となっては、30代の独身女性はたくさんいますが、私が30代前後の当時は、30歳になる前に結婚しなくては売れ残るという風潮があり、30歳を過ぎた辺りから、私も内心、あせっていました。
そんな私の前に急に現れた青い目のやさしい男性。そして、甘い言葉に花束の嵐。
知り合ってから亡くなる寸前まで、2週間おきに薔薇の花束をプレゼントしてくれたフリップ。
(写真の花束は、私が、まだ日本で歯科医師をしていたころ、初めてプレゼントしてもらった花束の写真です。)
フィリップと知り合ったのは、アメリカのアリゾナ州のツーソンです。
私が父の矯正歯科専門の診療室を継いですぐに、自分の技術をもっと高めようと、アリゾナ州のツーソンで毎年おこなわれている歯科矯正テクニックの一つである、ツイードテクニックの集中講座に参加した時に、フランス代表のインストラクターとして講師を務めていたのがフィリッピでした。
講習会が始まったと同時に、私を見つけたフィリップは、毎日、毎日、私のところにやってきては、自分をアピールしてきました。誰が見ても、私に好意があるのは、一目瞭然で、私は、どうしていいかわからず、ただただ、一生懸命、講義に集中しました。
2週間の講習会が終わって、日本へ戻ると、次の日に、なんと、フランスから花束が届き、それから2週間おきに花束を送ってきてくれて、これは、私に対して、ただの遊びではなく、真剣に思ってくれているのに気づき始めました。
4年間、私の親に反対されても、何度も何度も日本へやってきて、あきらめない熱意。私は、もう、彼にすっかり心を奪われてしまいました。
主人と出会う、それ以前、私は父の診療室を継ぐ予定で、地元の歯科医師と何度かお見合いをしました。
何度あっても、好きなのか、きらいなのか、はっきりせず、ただただ、デートを重ね、時間だけが過ぎていく、交際も経験しました。
何度あっても、好きなのか、きらいなのか、はっきりせず、ただただ、デートを重ね、時間だけが過ぎていく、交際も経験しました。
しかしながら、フィリップに出会ってからは、どんなに母に反対されても、めげずに何度も何度も日本にやってきて、私への誠意は、半端ではありませんでした。
ラブレターもたくさんもらいました。しかも、その手紙がだんだん日本語になっていきました。一生懸命、日本語を勉強していたのです。
私が、水泳が好きといえば、泳げなかった彼は、密かにスイミングスクールに通い、知らない間に泳げるようになっていました。
ラブレターもたくさんもらいました。しかも、その手紙がだんだん日本語になっていきました。一生懸命、日本語を勉強していたのです。
私が、水泳が好きといえば、泳げなかった彼は、密かにスイミングスクールに通い、知らない間に泳げるようになっていました。
まるで、私が100パーセント間違っていても、私が、「右」といえば、「そうだね、右だね。」と右へ行く、「あ、やっぱり、左!」と言えば、左へ行ってしまうほどの、私に対する誠意でした。
「こんなにまで私を愛してくれる人は、もう二度と表れない。」と、すべてを捨てて、フランスへお嫁に行ってしまった私です。
主人のいとこと主治医の話を聞いた後、病院を出て、病院の前のバス停に来ると、「可奈子も一人で大変だろけど、僕も今、離婚したばかりで、大変な時期だ。お互い、がんばってこの時期を乗り越えよう。」と、主人のいとこと硬い握手をして別れました。
それから2年間は親戚の集まりで主人のいとこに何度か会いましたが、まさか、この主人のいとこが今、私と現在カナダで一緒に暮らしている、新しいパートナーになるとは、私も彼も、当時、まったく想像しなかったことです。
最終回へ続く
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