dimanche 24 avril 2016

―パリの我が家のお手伝いさん、アイリーンは今どこに?  

アイリーンとの出会い

前回のブログで日本人が海外で生活する大変さについてお話いいたしました。

今回も引き続き、そのお話です。

私が、フランスへお嫁に行ったときのことです。(右の写真は結婚式へ向かう当時の私の写真です。)

主人がすぐにお手伝いさんを手配してくれました。
特に私が頼んだわけでもないのですが、多くのフランス人家庭には、当たり前のように、お手伝いさんがいます。

前回のブログでお話させていただきましたように、家政婦など、掃除関係の仕事は、移民の仕事です。
しかも、日本の非正規雇用のように、雇用が保証されていません。ボーナスもありません。有給などもありません。時間給でバイトのような形でしか働けませんので、これらの非正規雇用の人たちは、いつ解雇になるかわからないので、少ないお給料でも、皆、必死で働きます。

我が家のお手伝いさんは、アイリーンという名のフィリピン出身の移民でした。
週に2回、掃除と洗濯、そしてアイロンをお願いしていました。

私は日本で矯正専門の歯科医師でした。そして主人も同じ職業でしたので、フランスでも主人の診療室で歯科助手として仕事を続けることができました。

私と主人が仕事から帰ってくると、部屋はピカピカでした。それは、アイリーンのプロ意識のおかげでした。特にアイロンのうまさには、本当にびっくりしました。まるで、クリーニング屋さんに出したような、しわひとつない仕上がりでした。ワイシャツもシーツもほんとうに素晴らしい仕上がりでした。

私の下着までも、きれいにアイロンがかけられ、全部同じ大きさにたたんで、洋服ダンスの引き出しの中に、まるで下着屋さんの展示会のように美しく配列されて置かれていました。私は、それを最初に見たとき、ものすごく感動したのと同時に、「こんなまでしていただき申し訳ない。」と思ったのを今でもよく覚えています。

子供ができてからは、私が仕事に行く日、アイリーンは、お掃除兼、ベビーシーターをしてくれました。

アイリーンは、私が結婚してフランスに引っ越した時期にちょうど、フィリピンから移民してきました。主人がフランス語ができない私のために英語の話せるお手伝いさんを用意していてくれたのです。私とアイリーンの会話は、英語でした。

子供が生まれてから5歳になるまで、アイリー―ンは子供に英語で話し続けてくれたので、今考えると、子供が英語が堪能なのは、アイリーンと一緒に過ごした幼少の経験のおかげかな、と思ったりしています。

アイリーンは、私たちの帰りが遅くなると、冷蔵庫にある材料で、よくフィリピン料理を作って待っててくれました。
それがまたとてもおいしかったのです。

「夢ならば、どうか覚めないように。」と

アイリーンと初めて会った時の事を今でもよく覚えています。「はじめまして、私の名は可奈子です。よろしくね!」と挨拶をすると、「ウィ、マダム!」と。

それ以降、最後の別れまで、アイリーンは私の事を、「マダム」と呼び続けました。

私は、週に2日程度だけ働いて、基本的には子育てを中心に生活していました。
私が仕事がない時など、よく、アイリーンと一緒に子供を連れて公園に行きました。
公園を見まわしてみると、子供を遊ばせているのは、見るからにフランス人でない、移民組のベビーシッターさんたちでした。

フランス人家庭のほとんどが共働きですので、安いお給料で雇用できて、他人の子供でも自分の子供のように大切に扱ってくれるフランス語圏から移民した黒人女性はフランス人家庭ではかかせない存在です。
ですので、3時過ぎのパリの公園は、「ここ、フランス?パリ?」と疑ってしまうような、赤や黄色の色彩鮮やかな黒人の民族衣装した女性で大いににぎわっていました。
そして、フランス語の話せない私とアイリーンは、いつも二人でその様子を眺めていたものです。

アイリーンは、私と主人が学会の時、家に泊まってくれて、子供の面倒を見てくれました。それが日曜日にかかかる時などは、敬虔なキリスト教信者のアイリーンは子供も連れて、教会にお祈りに行っていたようです。

私は、このころ、「フランスでこんな幸せな生活できるなんて夢のよう。夢ならば、どうか、覚めないように。」と心の中で、よく、つぶやいていました。

そして、やはり、この夢のような生活は長くは続きませんでした。

■フィリピン事情
フィリピンついて、少しお話しいたします。

フィリピン経済を支える重要な要素は、海外出稼ぎ労働者による送金であり、貿易赤字もこの送金で支えられた経常収支の黒字によって相殺されています。

フィリピン人海外出稼ぎ労働者は、全人口の1割超に相当する約1,024万人で、行き先は、米国が約354万人、中東諸国が約249万人を占めます。(201312月時点)。
また、2014年の送金総額は、約243億ドル(うち日本からの送金額は約9.8億ドル)で過去最高を記録しました。

ですので、アイリーンは、典型的なフィリピンの出稼ぎ女性でした。ただ、多くのフィリピン人が英語を話せるので英語圏へ出稼ぎに行くのに対し、アイリーンは、なぜか、フランス語圏のフランスへ来てしまったのです。(たぶん、当時、フランスしか、受け入れ国がなかったのでしょう。)

しばらくすると、アイリーンは、私に慣れてきました。
「私はマダムのお子様と同じくらいの子供と主人をフィリピンに残してきました。私のフランスでの稼ぎで、自分の家族はもちろんのこと、親戚一同の生活資金になっています。働かせてもらい感謝しています。」と、フィリピンに残してきた家族のことについて、時々、話してくれました。

アイリーンの鞄にはいつも息子さんの写真が入っていて、「マダムのおかげで、学校の制服を買ってあげられた。」と、フランスからの送金で購入できた息子さんの制服姿の写真を見せてくれました。

フィリピンにとって日本は最大の援助供与国でもあります。交友関係もとても良好な国です。ですので、アイリーンは、英語で会話でき、しかも、自分の国を助けてくれている日本人の私がいる家庭で働けることをとても喜んでくれていました。

何しろ、私とアイリーンは、共にフランスでサバイバルな人生を歩む、共同体となりました。

1年も経つと、私もアイリーンも会話程度のフランス語ができるようになりました。

■幸せの絶頂期に谷底へ突き落された瞬間

パリでの新しい生活は、家庭も仕事もすべて順調で、結婚4年目の春を迎えようとしていました。

私は、主人の力添えにより、フランスパリ第5大学の歯科矯正学教室の舌側矯正治療のアドバンスコースの2年間コースを修得することができ、その経験から、あちこちで声がかかり、何軒かの矯正歯科医院で、歯科助手、権、通訳として働かせていただいておりました。

ある日の午後、仕事先に電話が入りました。「ご主人が倒れて病院へ緊急入院しました。すぐに来てください。」と。

主人に癌が見つかりました。あまりのショックで、倒れそうになって帰宅した私を待っていてくれたのもアイリーンでした。一緒に泣いてくれました。

その後、2か月半で主人は逝ってしまいました。いくら、医師に、「残念ながら、あと半年の命です。今から、その準備に入ってください。」と言われても、冷静に準備できるはずがありません。

主人だけを頼りにフランスへお嫁に行った私。しかしながら、フランス語が片言しかできない私と、まだ3歳の子供、そして、主人の前の結婚の子供二人を残して、主人は何も準備もできず、逝ってしまいました。

主人が亡くなった瞬間から、すべての責任を私が負うことになったのは言うまでもありません。

主人が亡くなった瞬間のことは今でも鮮明に覚えています。まるで、山の頂上から谷底に思いっきり突き落とされ、その落ちていく感覚が身体中に走り、しばらく震えが止まりませんでした。

悲しみの中、このショック状態のまま、私は、仕事を増やしました。1週間フルタイムで3件の歯科医院で働きました。

私は、心に決めました。自分の子も、主人の前の結婚の子供二人も、そして、アイリーンも、「私が今まで通り養っていく。」と。

日本の親に、私は、一切援助を求めませんでした。

私の父は、日本では、まだまだ矯正歯科専門という分野が目新しい時代に、いち早く個人で矯正歯科医院を開業し、成功したパイオニア的存在でした。

父の死後、医院を継ぐはずだった私なのに、すべてを捨てて、フランスへお嫁に行ってしまったのです。ですので、親に援助を求めない、というより、求められるはずがありませんでした。

現在は、母もすべてを水に流してくれて、関係は友好です。また、孫はどこのおばあちゃんと同じように、目の中にいれても痛くないほど、可愛いようです。

主人の死後、私は必死で働きました。皮肉なことに、主人がいたときは、なかなか上達しなかったフランス語ですが、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされた瞬間から、フランス語が上達しました。

主人が亡くなったことにより、「人間は、自分が思う以上の高い能力があり、それは、それができなければ生きていけない、という究極状態にならなければ発揮できないのだ。」という事に気づかされました。


■フランスの恐怖のバカンス

フランスは、皆様もご存知の通り、バカンス大国です。多くのフランス人が夏に1か月以上の休みを取るのが当たり前の国です。また、これらのフランス人は、皆、労働法により守られていますので、1か月休んでもお給料は、通常通りにはいってきます。

しかしながら、私は、ちがいました。フランスの夏の長期のバカンスは、私にとって、恐怖のバカンスとなりました。

私は、1件の歯科医院は正規で雇っていただいていたのですが、その他の歯科医院はバイトのようなかたちでしたので、夏にパリのほとんどの歯科医院が1か月休みをとるということは、私の収入も激減します。

また、仕事がなく、私が家にいるということは、アイリーンは必要なくなりますが、私が、1か月、お給料をあげなかったら、アイリーンはフィリピンに仕送りができなくなります。

よく、フランスで問題になっていました。裕福層と貧困層の差がなかなか縮まらない、と。その差は縮むはずがありません。

裕福な家庭は、このように、生活が保障されながら、長期に休みをとり、非正規雇用の移民は、雇用先が必要な時にだけ働かされ、必要がない時は、何も保障のないまま収入が途絶えてしまいます。

私のポリシーは、「自分がされて嫌なことは、他人にもしない。」です。

私は決めました。夏の1か月、仕事がなく、収入がない時でも、アイリーンに1か月分のお給料を支払いました。

私はバカンスにも行かず、ほとんどのパリの人たちがバカンスへ出かけてしまって廃墟状態の誰もいない公園やプールで、子供と二人だけで夏休みを過ごしました。そして、子供にわからないように、よく一人で泣きました。

次回へ続く


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