samedi 14 mai 2016

■第2の人生へ

最終回です。
(3話に分けて投稿しました。)       

主人が亡くなって壮絶な2年を過ごてきた私ですが、2年も経つと、主人が残していっ仕事の残務整理も全部片付き、主人の息子たちも独立し、生活が落ち着きを取り戻し始めました。

そして、このころ、主人の親戚の薦めもあり、主人の従妹とお付き合いすることになりました。

前回のブログでお話しましたが、主人が亡くなった時に一緒に病院に主治医の説明を聞きに行ってくれた方です。

この時期、もう一つの選択もありました。
日本へ戻って、また、一から歯科医師として、一人で子供を育てながら生きていく。という選択です。

私は、この時、悩みました。

日本で歯科医師として働けば、生活は安定するでしょう。でも、私が歯科医師という責任ある立場で働くとしたら、子供は、どうなるか、ということでした。

お父さんがいないことは、もちろんのこと、ハーフであるわたしの子供は、学校でいじめられはしないだろうか?
もし、いじめられたとしても、歯科医師として私が日本で働き始めたら、私は患者さんを放って、学校に飛んで行って子供を守ることができるでしょうか?
日本に戻ってしまったら、フランス語ができなくなり、フランスに住む義理の息子たちと疎遠になってはしないか?

また、子供が将来、大人になって結婚する時がきたら、お父さんのいない家庭で育った子供が、はたして、健全な家庭を築くことができるのか?などなど、たくさん悩みました。

日本の母に援助を求めることもできましたが、前回のブログでお話いたしましたように、大反対を押し切ってフランスへ飛んでいってしまった私は、母にお世話になるわけにはいきませんでした。

あとで母に聞いた話ですが、あの当時、私が子供を連れて日本へ戻ってくると思っていて、私が仕事をしている間は、母が孫を育てるつもりでいたようです。

このように、私があれこれと悩んでいると、主人の従妹である、新しいパートナーが約束してくれました。

「僕が責任をもって君の子を育てる。」と。

そして、その言葉を信じて、私は、日本へ戻ることを断念しました。

主人の従妹と生活を始めたころ、私は、まだ主人が亡くなったショックから立ち直っておらず、また、一人で未亡人として生活したパリでの経験は、あまりにも過酷だったため、50キロ以上あった体重が30キロ台までおちていて、自分の体を鏡で見ると、あばら骨が肌から透けて見えるぐらいガリガリ状態で、倒れる寸前でした。

私は、彼に伝えました。「パリにこれ以上いられない」と。

そのころ、私は、まだ亡くなった主人の遺灰を処理できずに寝室に置いてありました。

主人は、亡くなる前、自分の秘書に小さなメモ用紙に簡単な遺書を書いて渡していました。

亡くなったあとに、それを秘書から渡されました。

そこには、「もし、僕が死んでしまったら、お葬式はキリスト教の教会でしてほしい。その時に、もし、お香典をいただくようなことがあれば、それを、教会に寄付してほしい。また、亡くなったあとの身体は燃やして灰にし、海に投げてほしい、と書いてありました。

そして、最後に、「ぼくのまわりにいて、楽しい時間を与えてくれた皆様に感謝しています。ありがとう。」と書いてありました。

主人の従妹は、「可奈子もつらいだろうけど、早く、遺言通りにしてあげないと彼もかわいそうだよ。可奈子も前へ進めないよ。」と言われ、海に投げる決心がつきました。主人の前の結婚の子供たち二人も海に投げる事を同意してくれました。

しかしながら、まだ幼い我が子が、自分の父親の死に対してよく理解できていないのに、彼の意見も聞かずに灰を海に投げてしまっていいものか、と悩みました。

そして、灰の半分はお墓に置いておくことに決めました。

灰の半分は南フランスに住んでいる義理の息子と一緒に地中海の海に投げてきました。

そして、我が幼子が大人になって、いろいろなことが理解できるようになった時、彼がその残りの灰を海に投げて、最後のお別れをしたらいいと思います。

現在、主人のお墓は、主人のご両親やそのほかに亡くなった親戚の人たちのお墓がある
パリから北西へ約100㎞程行ったところにあるノルマンディー地方のヴェルノイユという歴史ある小さな町のお墓に眠っています。

その後、パリでの生活に幕を閉じ、私たちは、カナダへ移民することを決めました。

■アイリ―ンとの別れ

今回の3回に分けてお話させていただきましたブログの最初の回でお話させていただきました、フランスに住んでいた時の我が家の家政婦さん、アイリーンのその後についてです。

 アイリーンにも、カナダへ引っ越すことを告げました。

その時のアイリーンのショックの顔は、今でも忘れられません。

でも、あの時に、カナダへ引っ越さなければ、私自身が壊れてしまったと思います。
お父さんが亡くなってしまったのですから、子供を守るのは私しかいません。
私まで病気になるわけにはいかなかったのです。

残念ながら、これ以上、私の力でアイリーンを守ることができなくなりました。
この事を告げた瞬間は、アイリーンは、とてもショックを受けていましたが、私の体調の悪さ、そして、精神的にも限界だったことを知っていましたので、翌日には、明るい笑顔でカナダ行きを祝福してくれました。

そして、その時に、また、一緒に泣きました。

カナダ行きが決まってから、アイリーンを代わりに使ってくれる人を必死で探しました。
でも、残念ながら、フルタイムで働ける家政婦兼ベビーシッターは、やはりフランス語圏からの移民組で、フランス語が片言のアイリーンに新たな仕事先を探してあげられませんでした。

私は、アイリーンに、少しの間のたしになるようにお金と、これから向かうカナダ、ケベック州の住所を渡して、カナダへ出発しました。

カナダを選んだのは、姉夫婦がすでにカナダに移民して住んでいたこと、また、カナダは経済的にもまだまだ移民が必要な国だったことや移民に対する差別もほとんどなく、そしてフランス語圏ですので、新しいパートナーがすぐに仕事につけ、子供も言葉の問題がなかったことなどです。

カナダに移民した当初、姉夫婦の家に居候させてもらいました。
半年の間です。

姉夫婦の家に居候して3か月近くたったある日、姉が、「え、アイリーン?!」と電話で話している声が聞こえました。びっくりして電話にでると、それは、本当に、アイリーンからの電話でした。
「マダム、ジュ スイ オ トロント!!」(マダム、私、トロントにいます!!)と叫んでいました。

そう!アイリーンもカナダのトロントに移民してきたのです。

私がパリの生活に疲れていたように、アイリーンも、パリの生活は限界だったようです。
私がカナダに移民を決めてから、アイリーンも、カナダへの移民を考え始めていたそうです。

そして、フィリピンの看護婦免許があるアイリーンは、カナダの移民申請にパスしてトロントに引っ越してきたそうです。

私のいるケベックはフランス語圏ですが、それ以外のカナダの州は、英語のほうが主流です。ですので、アイリーンは英語圏のトロントへやってきました。
トロントの医師の家族が受け入れ先で、とても親切にしてくれている、と言っていました。

アイリーンは、「お金がたまったら、ケベックに遊びに行きます。」と電話口で明るい声で言っていました。
「私も、生活が安定したら、トロントに会い行くね!」と言って、アイリーンの連絡先の

電話番号を聞いて、電話を切りました。

それから、2か月後、私たちは姉の家を出て独立しました。

引っ越しが終わって、やっと落ち着いた、ある日、「あ、そうだ!アイリーンに会いに行こう!」と思った私は、アイリーンから聞いた連絡先の書いてある紙を探しました。電話口でメモしたとき、姉の家にあった小さなメモ帳に記載し、それを破って、自分で大切に保管しておいたつもりでした。

でも、それが見つからないのです。探しても、探しても、ないのです。姉にも探してもらいましたが、結局でてきませんでした。

それから、しばらくして、姉も引っ越してしまって、アイリーンに教えた私の連絡先もかわってしまって、彼女からの連絡を待つ、という手段も失ってしまったのです。

今でも、アイリーンの事をよく思い出します。2人でフランス語もろくにできないのに、パリの大都会で生きるために必死で戦った日々の事。

私が日本にいたころ、日本のテレビ番組で、家族や大切な友人を番組のスタッフが全国各地探し回ってくださり、念願の再会を果たせ、喜びに満ちた光景を放送する番組がありました。よくあの番組を見て、感動して泣いていたのを覚えています。

カナダにも、日本のこのようなテレビ番組ができ、アイリー―ンを探してくれないかなあ、といつも思っています。

もし、できることなら、アイリーンに、もう一度、会いたいです。


フィリピンの名前をフルネームで知っています。「Eileen Claire Dela Cueva」です。

彼女の写真はありません。一緒に撮ることをいやがりました。
どうか、元気でいてくれることを心から願っています。

■ 苦悩の後に得た大切な事                      

今回、フランス人について、あまりみなさんが良い印象を持つことを書いていませんが、主人が亡くなった後、私が路頭に迷っている時にたすけてくれたのもフランス人であったことも付け加えておきます。

私を移民としてではなく、一人の人間として、わけへだてなくおつきあいしてくださったフランス人の親戚や友人がいます。
この人たちのおかげで大変な時期を一人で乗り超えられることができました。
今でも、フランスへ行くたびに、会うことにしています。

あの時の恩は一生忘れません。

最後になりますが、パリで未亡人として過ごした2年間は決して無駄にはなっていません。

何といっても、この2年間のおかげで主人の前の結婚の子供たちとの絆が深まりました。今でも、本当のお母さんのように慕ってくれていて、お互いフランスとカナダを行き来しています。また、私たち大人に何かあったら、「僕たちが弟の面倒をみるから心配しないで大丈夫」、と言ってくれています。

この関係を築けたことは、私にとっては、お金には代えられない貴重な財産だと思っています。(写真は主人が残した3人の息子たちと私です。)

日本での裕福な暮らし、また、フランスでも短い間でしたが、主人のおかげで贅沢な生活も経験し、その後は、一変して未亡人として、移民として外国で幼子を抱えて生活する大変さも経験した私は今、いろいろな角度から人々を見ることができます。裕福な人たちの不満から貧困に苦しんでいる人たちの不満まで、立場の違う人々の言動を幅広く理解できるようになりました。

私は、カナダに移民して以来、泣くことはなくなりました。

毎日、笑顔で楽しく生活しています。

今、私を支えてくれている亡くなった主人の従妹である新しいパートナー、ジョンルックに感謝の気持ちでいっぱいです。

ジョンルックと私は再婚はしていません。

私の中では、結婚は一度で十分です。

そのことをジョンルックは理解してくれています。

でも、子供は養子にしてくれました。ジョンルックが現在、私の子供の父親です。

三回にかけてお話させていただきました。パリでの私の体験談、これで終わりにします。

今になってやっと泣かずに語ることができるようになりました。

一度、書いておきたかったのです。

この私の体験談で、いかに日本人が海外で暮らすのが大変かということを実感していただき、特に病気や事故、そして災害などの自分ではどうしようもできない事に海外で遭遇した時に、いかに自分が日本という国に守られているかがわかっていただければ本望です。

また、それでも日本を離れ、海外で生活してみたいと思われる方は、相当の覚悟をもって実行に移してほしいと思うのです。

この体験談を知って、今、いろいろな事情により、生活が苦しい方、あるいは、精神的にまいってしまっている方々に、「大変なのは、自分だけでない、みんな、人生、山あり谷ありで、いろいろあるんだなあ。」と、感じていただけて、命の大切さや、毎日毎日の日々を健康で過ごせることのありがたさをあらためて感じていただければ幸いです。

さあ、これから5月の新緑が美しい、1年で一番良い季節となりますね。

皆様、私事のお話におつきあいいただき心より御礼申し上げます。―






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